2008年秋にニュージーランドのオークランドにワーキングホリデービザで渡航し、語学学校に3か月、その後国内旅行や職業体験をしながらもう3か月を過ごした私。東京でそこそこ好きだった仕事も辞めて、なんか人生仕切り直し的な気分で飛び立った時のは25歳の時でした。
もう8年も前の話なのに、驚くほど鮮明に覚えているのはホームステイ先の家族と、初めてのフラットメイトと過ごした日々です。今思えば、かなりの人間ドラマが繰り広げられていました…。
「ホームステイを検討しているけど仲良くなれるのものなのかな?」「フラットシェアってやっぱり人間関係面倒くさいのかな?」と漠然とした不安を抱えている方々、私の体験談を読んで笑う(苦笑含む)ことが出来たならきっと心配ありません!
理想的なホームステイ
私のホームステイ先は、市内からハーバーブリッジを渡ったノースショアと呼ばれるオークランド北部にありました。東海岸沿いを走るビーチロード沿いで、ブラウンズ・ベイという綺麗な海まで徒歩10分の2階建てのかわいらしい一軒家でした。お庭にはバーベキューセット、ジャグジーとトランポリンがあり、異国情緒たっぷり。すでに10月も下旬でしたが、南半球では夏のはじまり。バス停に5分もいれば足にビーサンの跡が付くほど日差しの強い季節でした。
ホストファミリーの構成は、ニュージーランド航空の元フライトアテンダントだったママ、7歳の男の子(仮名トム)と愛犬。ママはニュージーランド航空のパンフレットの表紙を飾ったこともあった超美人さんで、バツイチでしたが同棲中のパートナー(仮名ジャック)がいました。トムはフランス人の元旦那さんとの子でハーフ。子供嫌いの私がかまって欲しくなる(?)ほどかわいかったw
家賃は週払いで、朝・夕の2食付き。朝はママのシリアルを食べて、日中は語学学校、夜は友達と食べてくる日以外は、私を含め家族全員がママの手料理をいただいていました。
当時は語学学校でも中級クラス程度の語学力だったので、食事中も「あれ、今なんて言った?」「あれ、ウォシュレットって和製英語かな」とか色々考えて、味わう余裕があまりなかったのを覚えていますw 夕食後は子供とちょっと遊んでから自室で勉強。いやぁ、健気に頑張っていました。
留学生の受け入れにとても慣れている家庭で、よそよそしくもなくお節介でもない絶妙な距離感をくれ、ホームステイ初の私でも比較的短時間でオークランドでの生活に慣れることができました。学校の友達と遅くまで遊んでも、ちゃんと連絡さえしておけば何時に帰ってきたのとか、誰といたのとか、翌日詮索されることも一切ありませんでした。
日用品はほとんど揃えてくれていましたが、必要なものがあれば車で買い物に連れて行ってくれましたし、お友達とのピクニックに呼んでくれたり、家でバーベキューパーティーを開いてご近所さんに私を紹介してくれたりと本当によく面倒を見てもらいました。あぁ、なんて理想的なホームステイ先なんだと思いましたねぇ
昼ドラのはじまり
ホームステイ開始から半月ほど経ったある日、2階の自室にいた私は階下でママが大声で話しているのを聞きました。なんだなんだ?と思っているうちに私の部屋のドアを開けて入ってきたのはトム。ちーん、という顔で「また喧嘩してる」と言うのです。
気になってちょっと盗み聞きしてみると、どうやらパートナーと言い争いをしている様子。そして気付いてしまったのです、これはママがジャックから別れを切り出されているのだと…。
こうなるともう出来ることは、何も聞かなかったかのようにトムと遊んであげること。トムの部屋で彼のお気に入りのスターウォーズレゴで遊ぶことにしました。でも7歳でも結構分かってるんですよね~、大人の事情ってやつを。「ジャックはママが嫌いなんだよ」って言うんですよ。あーもうめっちゃ切ないんですけど…。
しばらくしてジャックは退散。残されたママは一人リビングで泣いていました。干渉しない方がいいかなって思ったのですが、私も25歳だったので話の聞き役くらいにはできると思い、トムが眠りにつくのを確認してから下へ降りました。
ママ曰く、ジャックの元奥さんが寄りを戻したがっているらしく、なんとママが不在の時にジャックを尋ねにこの家まで来るほど執着し出したとのこと。たぶんジャックは色々面倒くさくなっちゃったのか、しばらく距離を置くためにこの家を出ると言い出したわけです。ジャックはトムをとても可愛がって子育ての一端を担ってくれていた存在だから、いなくなると精神的に大きな痛手だったろうと思います。
昼ドラの終わり
ジャックが出て行ってからは意外にも平穏な日々が続きました。トムとしてもママとジャックの喧嘩を見ずにすむこの方が良かったのかもしれません。
しかしそれもあの手紙が届くまでのことでした。フランスにいる元旦那さんは今までトムの養育費援助をしてくれていたのですが、再婚を機にその仕送りを止めたいとの手紙が届いたのです。
驚きと怒りと今後の不安で、ママはまたもやパニック。でも母親ってやっぱりすごいなーと思いました。翌日にはすっかり現実を受け入れて、職探しを始めていました。
トムの小学校への送迎が可能な時間帯のパートがなかなか見つからなくて、ママがイライラしているような時間が増えました。ホームステイを開始して1か月が経っていたのでもう他人事には思えず、率先してトムを連れてビーチまで散歩に行ったり、なるべくトムの一人遊びに付き合ったりしていました。
2週間ほど経って決まったどこかのクリニックの受付の仕事。朝からバタバタして、友達と会う時間がないわって嘆いていたママ。今思えば、私も掃除なり料理なりもっと手伝って、生活を助けてあげるべきだったと少し後悔しています。
当時は英語にまだ自信がなくて、今ほど度胸もなくて、ホントに不甲斐なかった。それと同時に、なんだかママの機嫌を伺うことも多くなった環境に気疲れしてしまっていました。さらに、この頃には学校の友達ともかなり仲良くなっていたので、夕飯を外で食べることも頻繁で、本数が少なく片道30分のバスで市内とホームステイ先を往復するのも億劫になってきていました。
語学学校に通うのは3か月だけの予定でしたし、学校で知り合った友人は当然みんな留学生でした。学校が終わってからはもっとローカルの友達を増やしたいと思っていた私。そうじゃないとわざわざニュージーランドまで来た意味がないような気がしたんですよね。クラスメートと英会話してるだけなら駅前留学で良かったじゃんって。
ここはいっそのこと市内でフラットシェアをしてみよう、とフラット探しサイトをチェックし始めたのはホームステイ開始から2か月半ほど経った頃でした。ママは寂しくなると言いながらも私の決断を応援してくれましたが、また次の留学生を受け入れなければ収入が減るわけなので、ママに申し訳ない気持ちになったのも事実です。
こだわり
どんなフラットに住みたいか、どんな子と住みたいか、かなりこだわりがあった私のフラットメイト探しは当然ですが難航しました。
オークランドも市内となると一軒家よりアパートが多く、私の予算では日本人でも狭く感じるような物件ばかり。大きなバルコニーがあってぇ、部屋通しが離れててぇ、水回りがキレイでぇ、とかいう私の理想は夢物語のように思えてきました。
また、絶対ローカルと住みたかった私の前に立ちはだかった現実、それは韓国人が集まって市内のお得物件を総ナメしていたこと。
今では中国人の方が多いかもしれませんが、当時のオークランドには韓国人留学生と労働者がめっちゃ多かったんです。市内のカフェの店員の6割は韓国人なのでは?と思うくらい。フラット探しサイト上の情報には限りがあり、「あ、このフラット良さそう」と思っても見学に行ってみると、4部屋中3部屋が韓国人なんていうのも何件かありました。
私は韓国も韓国人も大好きなんですが、同胞がつるんでいる環境に身を置くのだけは嫌だったんですよね。彼ら普段から韓国語で話してるだろうから英語力低そうだし、食事も韓国から送ってもらったカップ麺とかで、「ニュージーランドまで来て何やってんすか?」とつっこみたくなってしまうのです。
私はニュージーランド滞在中終始日本人を避けていましたが、これも同じ理由からで、今でもそれで良かったと思っています。自分で英語を話す環境を作らないと、英語なんて絶対うまくならないと思ってます。
理想的なフラットシェア
3週間、毎日のようにフラット見学に行った甲斐あって見つけたのは、イラン系カナダ人の女の子が住むフラット。同い年でオークランド大学院で法律を専攻していた彼女(仮名ベス)はカナダ国籍でしたが、ニュージーランドの市民権を持っており英語ネイティブだったので、ローカルと住むのに近い環境だと思いました。
4階建てのコンクリート打ちっ放しの外観が気に入りましたし、最上階だったので部屋のバルコニーが狭くても開放的でした。部屋は4畳くらいでしたが、ベッドと勉強机を置くには充分でしたし、リビングと半透明のガラスで仕切られていたので広く感じました。比較的規則正しい生活を送っているらしく、夜は自炊が多いというのも好印象。でも最も運命的な何かを感じたのは、そのアパートの住所がビーチロードだったことw 同じビーチロードでも今度は市内のビーチロードです。
私の他に数名が見学に来たとのことで、即決はできないけど今週中に連絡するねと言われたのですが、もう絶対ここがいい!と思ってその日からフラット探しは一時休戦。2日後に「あなたに決めた!」とメールが来たときは、年甲斐もなく自室でよっしゃーっ!と叫ぶほど嬉しかったです。
暮らし始めてからはそれはもう楽しくて、一緒に課題を終わらせたり、映画に行ったり、夕食の買い出しに行ったりして毎日を過ごしました。
インターネット代や光熱費を毎月計算してはちゃんと説明してくれる責任感の強い子でした(ベスは健在ですw)。郵便局に国際郵便の荷物を紛失されたらしく、窓口でスタッフと何度もやりあっては「こうやって主張しないと真面目に調べてもらえないんだよ、特に中東系の移民はね」と淡々と話す、クールでかっこいい子だったんですよね。
カナダ在住時代は、イラン系だという理由だけで車でアメリカに入国する度に長い尋問を受けていたそうで、人種差別というものを絶対にしない子だった。
カナダで生まれ育ったけど1年だけイランの小学校に通ったことがあったそうで、「英語の先生がバルーン(風船)をバルンって言っててね。スペルを見てください、O(オー)が2つだからバルーンですって教えてあげてたんだよw だから慣れてるの」と、私の英語を面倒くさがらず、嫌味のない感じで頻繁に訂正してくれたのも本当にありがたかった。
次第に文法や発音が間違ってるかもしれないなんて心配する気持ちより、もっと色んなことについて話したい気持ちの方が強くなって、ホームステイ時代の何倍も英語を話す時間が増えました。気になることや意見の食い違いがなかったといえば嘘になりますが、もう嫌だと思ったことは1日もなかったです。
ホームステイのママもトムを連れて遊びに来てくれて、この頃はニュージーランドが本当に好きで楽しい時期でした。
突然の昼ドラ2
フラットシェアをはじめて英語がますます好きになり、ベスが大学院生として頑張る姿に感化されたのもあって、ある日私はビジネススクールへの進学を決意しました。考えに考えを重ねた結果、ニュージーランドではなくイギリスのスクールへ行くことに。その準備のため、日本に一時帰国するのは3週間後。
イギリスのビジネススクールのお話はこちらの記事を
ベスが私との生活を楽しんでくれていたのが分かっていましたし、ちょうどその頃ベスの婚約者が海外に長期出張中だったこともあって若干精神不安定っぽい感じだったんですよね…。だからちょっと言い出しにくかったけど、こういう事は早めに言っておこうと思って夕食時に切り出しました。そしたら案の定、ちーんって顔で「そうなんだ」。応援するとも寂しくなるよとも言われず、無言で夕食を済ませ、婚約者とスカイプすると言って早々に自室に引き上げていきました。
「あ~、考えてる段階でひとこと言っておくべきだったかな~」なんて思っても時すでに遅し。翌日から面白いくらいに無言のベス。帰宅すればリビングでおかえりと言う私をスルーして自室へ直帰。こんな子供っぽいことに付き合ってられんと、私も意地張っちゃったんですよね。
せっかく決めた次のステップを応援してもらえなかったのも悲しかったし。お互いに避け続けて1週間経った頃、ベスは婚約者に会いに行ってしまいました。彼女が帰ってきたのは私が帰国する前日。荷造りやらお土産の準備やらで忙しかったこともあり、結局顔すら合わせずに寝てしまいました。翌日起きるとそこにベスの姿はありませんでしたが、テーブルの上に手紙が…。
そこには、私との生活が大好きでずっと一緒にシェアしたいと思っていたこと、突然の帰国の知らせにちょっと裏切られた気持ちになってしまったこと、私がいなくなることに慣れるために私を透明人間扱いしていたこと、本当にごめんね、イギリスで頑張ってと書いてありました。
読み終わったときは大きなため息が出ました。まさかベスがここまでセンチメンタルな気持ちになっていたとは思いもしなかったんですよね~、クールでかっこいい子だったので。
「またフラットメイト探さなきゃいけないじゃん、面倒くさい」
とか思われてるんだろうと(実際この気持ちはあったと思いますが)、
それでもうさっさと行ってくれくらいに思われてるんだろうと推測してたので、普通に驚きました。出発の時間も迫っていたので、ありがとう、こっちこそごめん、日本からメールしますとだけ走り書きして帰国しました。
数日後、日本からメールして私がどう感じていたかを正直に話しました。もっと早いうちから相談しておくべきだったこと、ニュージーランドが楽しかったのはベスのおかげだということなど。その後スカイプもして、なんでかお互い話しかける勇気がなかったねと笑いました。私が置いてきたベッドなどの家具を次のフラットメイトに売ってくれて、ちゃんと送金もしてくれたんです。ホント、最後まで面倒見がよくて責任感の強いベスでした。
ニュージーランドの後、他の国でもフラットシェアをしましたが、もともと一人好きの私はベスなしでは一生フラットシェアという経験をせずに過ごしていたかもしれません。8年経った今でもベスとは良い友達です。
まとめ
多くの人にとって海外留学やワーキングホリデーは大きな出費。でも勇気を出して挑戦しなければ一生経験できなかったことや、お金には決して代えられない出会いがたくさんあるものです。
はたから見れば私が引いたのはちょっとした貧乏クジかもしれませんw でもこのような人間ドラマがあったからこそ、今でもこれだけ鮮やかな記憶として残っているんだと思っています。何もかも、人として自分を成長させてくれた本当にいい思い出です。
「昼ドラ並みの人間ドラマにため息!?NZホームステイ&フラットシェア後記」のまとめ
- 理想的なホームステイ
- ママ、7歳の男の子、愛犬とママのパートナー
- 家賃週払い、朝・夕の2食付き
- 留学生の受け入れに慣れてた家庭
- 日用品はほとんど揃えてくれているもの
- プライベートは尊重してくれる
2.昼ドラのはじまり
- ママ、パートナーに別れを切り出される
- 7歳でも大人の事情には敏感
- 留学生でも話の聞き役くらいはできる
- 昼ドラの終わり
- 元旦那からの養育費援助ストップ
- もっと生活を助けてあげるべきだったと少し後悔
- 英語への自信も度胸もなくて不甲斐なし
- ママのご機嫌伺い、市内へのバス通学に気疲れしはじめる
- ローカルの友達なしではニュージーランドまで来た意味なし
- ネットでフラット探し開始
- こだわり
- 市内は一軒家よりアパートが多く、お手頃な物件は狭い
- ローカルと住みたいのに韓国人が市内のお得物件を総ナメ
- 見学に行ってみないと誰が住んでいるか不明確
- 留学生が同胞がつるむ環境は回避
- 日本人も避けて自分で英語を話す環境を作る
- 理想的なフラットシェア
- 同い年のイラン系カナダ人大学院生の女の子とフラットシェア
- 責任感が強く、人種差別を絶対にしない子
- 留学生の拙い英語も面倒くさがらず訂正してくれる
- 間違えることを恐れなくなり、英語を話す時間が大幅に増
- 気になることや意見の食い違いは当然あるもの
- 突然の昼ドラ2
- イギリスのビジネススクールへの進学を決意
- 突然の帰国の知らせにベスがショックを受け無言に、透明人間扱い開始
- 最終日に手紙で心情を伝えられる
- 帰国後にメールとスカイプで和解
- フラットメイトには早め早めのひとことを
8年後の今もベスとは友達
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